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破天荒な人生を送った石川啄木(2)
1903年、結核を患い実家へと身を寄せた啄木は、この頃から「啄木」のペンネームを使い始め、その作品に対し、歌壇から注目が集まるようになります。
1904年に再び上京し、1905年には『あこがれ』を出版、妻・節子と結婚します。
1906年、尋常高等小学校に代用教員として勤務。徴兵検査で筋骨薄弱と判定され、徴集を免れますが、1907年にはストライキ騒ぎで教職を退きます。
この後、啄木は盛岡の妻の実家に妻子をあずけ、新聞社や教職につきながら北海道を点々とします。
中学での先輩に当たる言語学者・金田一京助の援助などもあり、啄木は何とか生活を続けていきます。
――と、このような感じでは、詩人を志す青年が、詩作と生活の狭間で苦労を重ねているようにも見受けられるのですが……
啄木自身が書き残したローマ字で綴られた日記を解読してみたところ、京助などから借りた金のほとんどを遊興に費やしていて、そのために貧困にあえいでいたことがわかったのです!
金田一京助の息子で、国語辞典の編纂などで知られる金田一春彦は、幼い頃、啄木のために家財道具を売ってまで金銭を用立てていた当時の父のようすを見て、「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないかと疑ったことがある」とのちに語っています。
1912年、破天荒な人生を送った啄木は、肺結核のため死去しました。
27歳という若さでした。
破天荒な人生を送った石川啄木(1)
石川啄木は、1886年生まれの明治時代の歌人であり詩人です。
本名を一(はじめ)と言います。
岩手県の曹洞宗の寺が生家。
父の職の都合で岩手県内を点々としながら、中学時代には、のちに妻となる節子や、言語学者として名をはせることとなる金田一京助らと知り合います。
『明星』を読んだ啄木は、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、文学への志を抱くようになり、1901年、1902年と『岩手日報』に短歌を発表します。
と、こうしてみると、詩人として曇り一つないように思える啄木ですが、その人柄は作品とは少し異なったようで……。
何と、テスト中のカンニングが発覚!
これは、同級生の日記に記載されていた記述ですが、啄木は欠席が多く、成績も悪かったことから退学勧告を受けて1902年には中学校を退学したのだとか。
啄木自身も文学で身を立てるため、上京を決意したそうです。
カンニングは良くないですが、欠席が多いことや成績の悪さは、ひょっとすると詩人である啄木の繊細さや鋭敏さの裏返しということも考えられます。
一旦は出版社への就職に挑んだ啄木ですが、結核を発病し、その翌年には父に迎えられて故郷に帰ることとなります。
岩手県花巻に疎開していた高村光太郎(2)
1938年に智恵子と死別した彫刻家であり詩人の高村光太郎は、1941年には詩集『智恵子抄』を出版します。
ときは第二次世界大戦のさなか。
智恵子の死後、光太郎は戦意高揚を目的とした戦争協力詩を数多く発表しました。
1945年4月、空襲によって光太郎のアトリエと彫刻やデッサンなどの作品が焼失。
その5月、光太郎は岩手県花巻市(当時は花巻町)の宮沢清六のもとへと疎開しました。
この宮沢清六とは、宮沢賢治の弟で、その自宅は賢治の実家でもありました。
しかし、その年の8月には、この宮沢家も空襲で被災。
終戦後には、光太郎は花巻市郊外に粗末な小屋を建て、そこで一人暮らしを始めるのです。
この自炊生活はその後およそ7年間続きました。
光太郎は戦争中に戦争協力詩を作ったことへの自責の念にかられており、このことからの行動だったと言われています。
そして、このときの小屋は、現代でも「高村山荘」の名前で残っています。
1950年に戦後に書いた作品を詩集『典型』として出版、1952年には青森県の依頼で十和田湖畔の記念碑を作成。
これをきっかけに小屋(高村山荘)を出て、東京のアトリエに転居しました。
1956年4月2日、この自宅のアトリエで、光太郎は肺結核のため死去しました。
光太郎の命日である4月2日は連翹忌と呼ばれ、その作品のファンによって祈りが捧げられています。
岩手県花巻に疎開していた高村光太郎(1)
高村光太郎は1883年生まれの日本の彫刻家であり、詩人です。
代表作は、『道程』や『智恵子抄』など。
東京都出身の光太郎は、一時、岩手県花巻市(当時の花巻町)に疎開していたことが知られています。
上野の西郷隆盛像などでも有名な彫刻家の高村光雲の長男が、光太郎です。
東京美術学校(東京藝術大学)彫刻科に入学する傍ら、在学中に与謝野鉄幹が主宰する『明星』に寄稿などし、多才ぶりを発揮。
1902年に彫刻科を卒業しますが、さらに研究科に進み、1905年には西洋画科に移籍。
1906年からは留学のためニューヨークに1年、ロンドンに1年、パリに9ヶ月滞在のち、1909年に帰国しました。
海外の芸術にふれ、帰国した彼の目には、日本の美術界は古臭さに満ちているように映ったようで、このことから同じ彫刻家である父に反発。
東京美術学校での教職の口も断ってしまいます。
しかし、美術の道を断ったわけではなく、その後も美術批評を発表し、芸術の自由を宣言しました。
1914年には、詩集『道程』を出版し、智恵子とも結婚しますが、その妻の実家が1929年に倒産。
智恵子の健康状態は、これをきっかけに悪化し始め、まもなく統合失調症を発病してしまいます。
岩手県八幡平市の市の木・アカマツ
岩手県八幡平市の市の木であるアカマツには、雌松(メマツ)の別名があります。
一方で雄松(オマツ)と呼ばれている木もあって、これはクロマツの別称になっています。
アカマツは、マツの中でもとても良く見られるマツで、名前の通り木の皮が赤いという特徴を持っています。
また、クロマツとそっくりな外見をしていますが、クロマツよりは葉は柔らかく、さわってもさほど痛くはないことから違いが分かると言います。
アカマツはマツタケの生える木としても有名ですが、アカマツのほうもマツタケが生えるような環境で育つほうが寿命も長くなるのだとか。
アカマツは、薪にすると火力が強いことから、陶芸の窯や祭事の松明などにも利用されています。
燃料としてアカマツの薪が使われていた頃は、林には常に人の手が入っていました。
開けた明るい場所を好み、落ち葉の少ない不毛を土壌でも大きく育つマツにとって、これは他の植物の侵入を許さないことから、有益に働いていました。
また、同時にマツタケもそういった環境で育ちやすいため、燃料としてアカマツを使わない場合でも、マツタケの栽培山では、現在もアカマツ林に故意に人の手を加えているそうです。
岩手県盛岡市の市の鳥・セキレイ
岩手県盛岡市の市の鳥はセキレイですが、これはセキレイ亜科の総称で、実際にはセキレイの仲間は、たくさんの種類がいます。
その中でも良く見かけられるのが、キセキレイ、ハクセキレイ、セグロセキレイです。
キセキレイは、主に渓流などの水辺に生息しています。
体長は20cm程度。
頭や翼は灰色で、胸から下は白色ですが、腹部は名前の由来にもなっている通り、鮮やかな黄色しているので、他のセキレイとは簡単に見分けがつきます。
昆虫やクモをエサとしています。
ハクセキレイは、体長21cm程で、ムクドリより若干小ぶりで細身な体型をしています。
顔と腹部は白色ですが、頭頂部や肩、胸は黒く染まっています。
川の下流など、低地を中心に活動します。
セグロセキレイの体長も、ほぼハクセキレイと同じです。
セグロセキレイとハクセキレイは、同じ白と黒のツートンカラーをしていることから、なかなか見分けがつきません。
ただ、顔の白いハクセキレイに対し、セグロセキレイの顔は目の中心に黒く、胸や肩の黒色部分が全て繋がっているのが特徴になっています。
川の中流域を中心とした水辺に生息しています。
同じセキレイでも、この3種は微妙にすみ分けを行っているようです。
岩手県盛岡市の市の花・カキツバタ
岩手県盛岡市の県の花であるカキツバタはアヤメ科の植物。
湿地に咲く、青紫色の可憐な花で、愛知県の県花でもあります。
これは、『伊勢物語』において、在原業平がカキツバタの歌を愛知県で詠ったことから選定されたそうです。
在原業平が詠んだのは次のような歌です。
から衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばる来ぬる
たびをしぞ思ふ
お気づきでしょうか。
冒頭の文字だけを続けて読むと、「かきつばた」になります。
雅な和歌の世界ですが、これ、現代では芸人さんがバラエティー番組で良くやる「あいうえお作文」ですよね?
さて、同じアヤメ科のアヤメとカキツバタとハナショウブは、見慣れない人には似ていて違いがわからないものです。
その見分け方をご紹介しましょう。
アヤメは、花の色は紫、もしくはたまに白色があり、花びらの外側に黄色い模様がついているのが特徴です。乾いた土の上で育ち、5月上旬~中旬に開花します。
カキツバタの花の色は、青紫・紫・白など。水の中から茎を伸ばしていたり、湿地に好んで生えています。開花時期は5月中旬~下旬です。
ハナショウブは、赤紫や紫などの他、花の色が多いのが特徴です。湿地に育ち、6月上旬~下旬に開花します。
岩手県盛岡市の市の木・カツラ
岩手県盛岡市の市の木であるカツラ(桂)は、日本、中国、朝鮮半島に自生している落葉高木です。
公園に植えられたり、街路樹にされたりすることが多いので、名前はわからなくても見かけたことがあるという人は多いかもしれません。
カツラの木は、場合によっては高さが30mほど、幹の直径は2mにもなることがあります。
ハート型をした葉の形に特徴があって、秋になるとこれが黄色がかって紅葉し、落ち葉は醤油に似た甘い香りを漂わせます。
また、中国の言い伝えでは、カツラは、月に立っていると言われている木です。
このカツラの木に「高い理想」という意味があり、月のお宮の天井を支えているのだとか。
何でも、「桂男」という美男子が、この木を枝を刈るなどの世話をしているそうですよ。
ですから、月には「桂男」という美称があります。
また、「桂男」は単に美男子のたとえに使われることも昔はあったそうです。
実際のカツラの木は、街路樹として需要があるのか、木材の香りも良く、耐久性にも優れているため、家具や建物の建材の他、碁盤や将棋盤にも利用されています。
ちなみに、「桂皮」とも呼ばれるシナモンは、カツラと同じ「桂」の字が使われていますが、こちらはクスノキの樹皮のことで、カツラとは無関係なのだそうです。



